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本01

「人生を半分降りる」中島義道、から、てきとうに、抜粋。


 エエーイ! 「二十世紀」も「二十一世紀」も、哲学とはなんの関係もない! 「今日人類が直面している諸困難」を解決することも「権力一般を解体する思想」を見いだすことも、哲学の営みとはまったく関係ない! こうした社長の年頭所感のような駄弁ばかり連ねている哲学研究者はほんとうに困ったものです。 あなたの生活の現場を離れたいっさいの大げさな言葉は哲学的にはニセモノです。 もしあなたが日夜「よく生きること」について、つまり自分の「ぶざまな人生」について真剣に悩みとおすとすれば、「人類」だとか、「二十世紀の新思想」だとかいう空疎で高飛車で無責任な言葉は吐けないはず。 その余裕がないはずです。


 彼は繊細の極致のような人ですが、その感受性が一般人とズレている。一般人があわてふためいているときに平然としており、一般人が何ともないところで悪戦苦闘している姿が眼につきます。彼の生き方<半隠遁>と言える。演奏活動をやめたという事実より、こういうズレ方がそうなのです。彼はごく常識的な人から見れば、「半狂人」です。あまりにも、自己中心的であり、世の中の重大なことにはまったく無頓着で、どうでもよい些細な事に大奮闘している。


 こう叫ぶ人はただちに、「自分ひとりで生きているんじゃないからナ」とか「みんなのお陰を被っていることを知れ」というお説教に移ってゆく。大人になることは社会性を身につけることなのですが、それは自己完結的・自立的という概念と結びつくのではなく、逆に非完結性・非自立性という概念と結びつく。すなわち、大人になることとは、自分の非完結性・非自立性を自覚することであり、それがわからないヤツは子供なのです。

~中略~

 そして、―私自身は疑いなくシュジュギュイなのですが―本書で私がグダグダ語っているのも、この便利な言葉を使えば「みなさん、愛情乞食から脱してシュジュギュイになりましょう!」というすすめ、つまり「大人から脱して子供になりましょう!」というすすめにほかなりません。


 子供は何ごとでも自分固有の視点から・自分の気分に従って・自分の都合のよいように・自分に得なように、つまり「自分勝手に」決めるものです。だが、社会はこんなわがままはとうてい許してくれない。大人になることは、このわがままを捨てるように誓わされること。しかし、執念深い人がいて、大人になっても表面的にはこのわがままを捨てた振りだけして、心の奥底ではけっして捨てない。むしろ、それを自分のうちで密かに育てあげている。それが「シュジュギュイ=子供」なのです。


 とはいえ、とくに若いうちはあんまり「自己中心的」になりますと、生きてゆけなくなる恐れもある。まだ、人生において抵抗力がつかないうちに、一般人からのズレだけを信じて生きてゆこうとするのはつらく厳しすぎる。そこで、多くの「純粋な」青年は自殺することになるのです。

~中略~

 こういう青年にとって、「生きる」ということと「不純である」こととは同意味なのです。したがって、純粋を貫くためには死なねばならない、という単純な結論が出てくる。今どきあまりはやらない論理かもしれませんが、「自己中心的な」生き方から自殺を排除する理由はない。

~中略~

 ただ、私が気に入らないのは、「純粋ゆえに自殺する」というこの短絡的な・甘えた・思い上がった論理の振り回し、言いかえれば思考力の弱さです。「どう生きても不純である」ということはいいでしょう。ほんとうにそう思います。しかし、自殺という行為もまた同じように不純なのです。ですから、そう簡単に自殺のほうに「純粋さの戦い」の軍配を上げるわけにはいかない。何もかもわからない。何もかもわからないから「生きてみる」という生き方は、自殺をするという生き方より劣っているわけではない。不純なわけではないと思います。


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