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カレーの食べ方が分からなくなった話

 サッカークラブのイベントで、対外試合をする際、ホテルや旅館ではなく、対戦相手の選手の家に2泊3日でホームステイをするというものがあった。

 僕はチーム内で唯一友達といえる存在だった子と一緒になった。
(この辺は保護者等が気を使ってくれていたようで、こういった泊りがけの際、少人数での部屋割りの際には必ず彼と一緒にしてくれた)

 一泊目の晩、夕食にカレーが出た。
 でもお皿が出てきた瞬間、僕の頭がパニックに陥った。

 「カレーの上にトンカツが乗ってる!ねぇ!?どうやって食べればいいのこれ!?ねぇ!?」

 といった感じで、カレーにカツが乗っているというだけで、食べ方が分からなくなってしまった。

 どうしようか右往左往しているうちに、横に座っていた彼が食べ始めた。

 僕は思った。

 「そうか!○○くんの真似をすればいいんだ!」

 彼がスプーンを皿に入れ込む度に、僕はその一挙手一投足をまじまじと見つめ、それと同じような動作をして食べはじめた。
 彼がカツをスプーンで切れば、僕もスプーンでカツを切る。
 彼がカツにカレールーをかければ、僕もカツにカレールーをかける。

 そんなことをやっているうちに気が付いた彼に、「真似すんなよ」といわれた。

 そこではじめて僕は、

 「あぁそうか!自分のやりたいように食べればいいのか!」

 と思い、自分で勝手に食べ始めた。

今でも忘れたわけではないことを忘れないように

 僕は小学2年生から小学6年生まで5年間、サッカークラブに所属していたことがある。
 うちの母親に対して不信感を覚えた最初のきっかけが、僕に無理矢理習い事をやらせた後(学習塾、英会話教室、スイミング、サッカー)、その習い事を始めた理由を僕がやりたいといったから、などという流言飛語を父母友達に言いまわっているということを知ってからだ。

 そのサッカークラブは他のチームよりも厳しいところで、特に監督がかなりのしごき好きだった。
 その監督の指導を受け始めたのは5、6年生の時期で、練習はひどく大変だったけど、元々持久力はあったほうなので、技術がなくてへましてしばかれたり、試合なんかで動き方が全くわからなくて(本当にサッカーをやめるまで全く試合でどう動けばいいか分からなかった)、やる気がないと勘違いされてえらく怒られたり、そういったものだけ我慢すれば、なんとかやっていけた。
 サッカーは父親がやっていて(父親はこのクラブのコーチをやっていて、5,6年次は僕らの指導に監督とともにあたっていた)、よくある「父親の趣味、夢の押し付け」 の典型なのだけど、僕は全くサッカーに興味がなく、(信じられない話だけど)TVなんかでプロの試合すら一度も見たことがなかった。
 ただ、高学年になったときに、「サッカーを見ると親のご機嫌を取れる」ということに"漠然と"気付いてからはなるべく見るようにはなった。
 それでもサッカーチームは一つも知らないままで、TVで試合を見るといっても、僕の場合ボールがぽんぽこ動いているのが唯一楽しくて見ていたので、その当時の選手の名前も、試合の内容も、何一つ覚えていない。

 そもそもサッカーをまともに見たことがなかったこと、それと、そもそも運動神経がまるでなかったことで、シュートやら、パスやら、そういう単純な練習は出来ても、ミニゲームとか、そういう試合形式の練習はまるで何一つ出来なかった。
 そういう練習をするときは、ずっと頭が軽いパニック状態になっていた。
 どう動けばいいか全くわからない、でも止まっているとやる気がないと非難される、それでパニックを起こして無駄な動きをする、そうするとまた怒られる。
 もうどうしていいのか全く分からなかった。
 家に帰ってからも父親にお前はやる気がない、という趣旨の話を永遠とされて、「いや違うんだ。動き方が分からないんだよ。どうやって動けばいいか、全く分からない。どうすればいいのか」なんてことは言えなかった。
 チームメイトからもそのようなことでかなり嘲笑、非難されていたと思う。

 当然そんな感じだと大会や公式戦はもちろん、他チームとの練習試合にも滅多に出ることが出来なかったけど、これは僕にとっては嬉しいことだった。
 試合前にスタメンからはずされると、心の中でガッツポーズをしていた。
 とにかく僕にとってはサッカーをするなんてことは生き恥をさらすことでしかなかったし、それ以上に自分の事が何一つ分かってもらえない理不尽さを痛感させられるためにやるようなものでしかなかった。

 ある日のこと、その日は珍しく僕がスタメンに選ばれた。
 その日参加していたトーナメントで負けてしまって、5位決定戦という消化試合だったので、僕以外にもいつも試合に出られない人も何人か選ばれていた。
 僕は自分ではかなり頑張って、必死で走っていた。
 でもチームのベンチ前でミスをしてしまったときに、監督始めベンチで座っていたチームメイト、保護者が僕のことを嘲笑していたのには、さすがに参った。
 大会が終わって荷物をまとめているときに、僕の手前で話していた監督が4,5人のチームメイトに対して、僕の兄がいかにヘタレであったかということを話していたのにも、結構参った。
(僕の兄もサッカーをやらされていたけど、いじめられてやめてしまった)

 結局そのサッカークラブからは小学校を卒業すると同時に自動的に卒業することになった。

 僕が彼らに対して今は何も思っていない、という前提で生きているのは、彼らに対して鬱屈した思いがないというわけでは当然なく、ただ単に彼らから離れて生きたいから。
 ほかに理由など何一つない。
 「憎しみを超えて云々」だの、そんなことは一切思っていない。
 ただ彼らとは一生かかわりたくない、というだけの話。

僕のあだ名が不潔になった日

 小学中学年の頃、下校前のホームルームの直前、いつも僕をなじっていた二人組みが僕の髪の毛を後ろから弄り始めた。
 少しするとそのうちの一人が僕の髪の毛についていた小さな埃をつまみあげて、「○○の頭から変なものが出てきたぞ」と叫んだ。
 するとクラス中が僕の方を振り返り、ホームルーム前で教室に待機していた40代の女の先生までが心配した顔でこちらを見る始末。
 そしてその子はそのまま僕を立たせて、担任の先生の前まで連れて行き、その先生に髪の毛のチェックをさせた。
 先生はきれいな髪の毛じゃない、といってくれたが、その日以降しばらく、僕のあだ名が不潔になった。
 いや、あだ名というよりも、僕=不潔、という暗黙の了解がクラス中に広まってしまって、僕を拒絶する理由に「だって○○は不潔だから」という根拠が出来てしまった。

感動しないわけじゃない

 スポーツの感動がわからない、といっているけど、実はわかる。
 僕は小学生時代、無理矢理サッカーを5年間やらされたおかげで、その時代の写真なんかは全部切り刻んで処分してしまったけど、スポーツの感動がわからないわけではない。

 要はあれはね、代理戦争してもらってる感じなんだよ。
 オリンピックとかワールドカップとかで日本代表を応援するでしょ。
 外国人に日本代表がほめられるでしょ。
 そうするとなんか嬉しいでしょ。
 すごくバカらしいのはわかってるんだけど、なんだか嬉しいでしょ。
 僕はすんごい嬉しくなるのね。
 日本代表が勝つでしょ。
 なんだか嬉しいでしょ。
 僕もすんごい嬉しくなるのね。
 
 スポーツっていいと思うのね。
 でも戦争もいいと思うのね。
 実際戦争に巻き込まれたらそんなこと言ってられないのはわかってるけど、でも戦争もスポーツも、同じ感覚でやってると思うよ、みんな。
 命がかかっているか、そうでないかの違いね。
 自分の国が戦争に勝つと嬉しいでしょ。
 日本がアメリカに勝ったら嬉しいでしょ。
 自分の好きな国が戦争で勝ったら嬉しいでしょ。

 みんな、戦争、好きなんだよね、本当は。

 それでも戦争に反対するから、人格があるんだよ。

サッカ、ーさせ、られ、て良か、ったこ、と

 を羅列、する、よ。
 5年間、させられて、悪かったことの、ほうが、多いですが、ネガティブ、なので、却下。

 ■運動神経が、悪くても、体育の、時間、球技関係で、まともに、授業が、受けられた、けど、ドッジボールと、ソフトボールだけは、いつまで、たっても、憂鬱で、しようが、なかった。 あと、陸上競技も、人並み、に、できた。 マラソン、なんか、長距離走、では、上の上、だったけど、あだ名は、顔なし。 あの、千と千尋に、でてくる、「あ…あ…」ていう、あの、カオナシ。 マラソンで、一位に、なっても、まともに、人と、話せた、ためしが、なかったので、いつまで、たっても、カオナシ。 あと、マット運動と、跳び箱も、全く、できなかった。

 ■特技が、できたので、一芸、秀でてる、みたいな、ことで、それで、人と、繋がれた、ことが、何度か、あった。 僕は、リフティングが、人並み、程度に、得意で、みんなの、練習を、無視して、ずっと、一人で、ボールを、けっていることが、あった。 いま、思えば、変な人、だったと、思う。 あと、会うと、必ず、ときめも、の、話を、してくる、一つ上の、変な、先輩が、いたけど、シュートだけ、もの凄く、強いシュートを、撃つ人、だった。

 終わ、り。

わかった04

 いま、また、きがついた。
 わかった01で、いった、不愉快の、原因は、間違いで、わかった0203、のほうが、僕の不愉快の、原因だ。
 わかった01は、そもそも、意味が、わかりにくすぎる。
 こんなもの、オッカムの、剃刀で、一毛、打尽、だ。

わかった03

 つまり、僕の、あたまの、なかを、絵で、説明すると、こんな、かんじ。

Magks

 表現の自由と、漫画規制は、そもそも、適応地点が、違うので、構造的に、競合の、しようが、ない。

わかった

 エロ漫画なぞ、読まない僕が、「わいせつ漫画を描くことが表現の自由なんでしょうか」、という台詞を、妙に不愉快に感じる、その理由が、漠然と、わかった、いま、わかった。

 答えは、簡単。
 表現の自由が、この台詞を吐く人のなかで、本来ありえない、組織権力化、している、から、だ。

 わいせつ漫画を、描くことを、表現の自由から、取り除くことは、原理的に、不可能だ。
 表現の自由には、その言葉のとおり、すべての、表現的自由が、含有されている。
 どうしても、わいせつ漫画を、表現の自由から取り除こうとすれば、必然的に、表現の自由という、概念自体を、解体するしか、なくなる。
 つまり、表現の自由など、もともと、ありません、と、いうことでしか、わいせつ漫画を、取り除くことは、できない。

 しかし、なぜ、この台詞が、成り立つのか。
 それは、ただ単に、この台詞を吐く人の、脳みそのなかで、表現の自由が、なにか実体をもつ、確固たる、権力構造として、捉えられてしまっている、から、だ。
 表現の自由という、言葉自体が、それ自体が、自ら、表現の自由、を、反映できる範疇を、指定する、かのごとく、錯覚に、陥っている。

 のだと、漠然と、わかった、ような、気がする、けど、いまいち、うまく、説明、出来ない。

読んだ本01

 「大宇宙・七つの不思議」

 地球外生命体から、膜宇宙まで、いろいろ詰め込んであって、面白い。
 特に、ブレーン宇宙モデルの項は、わかりやすく説明してある。
 本当は多分、全然わかってないけど、とりあえず、わかった気にはなれる、そんな一冊。


「「科学の謎」未解決ファイル」

 こちらも、いろいろ詰め込んであるけど、話題が多すぎて、入り込んで読めない。
 目が、ちかちか、する。


「自殺自由法」

 面白そうだから、読んでみたら、うーん、別に読まなくてもいい本だと、読んでから、気付いた。
 爆弾みたいな本だと思っていたら、全然、なんともない、なんにもない。
 雨宮さんのあとがきも、かすんでみえるよ。


「人生を<半分>降りる」

 中島義道さんの、初めて読んで、うーん、面白い。
 でも、大宇宙よりも、面白くない。
 でも、面白い。
 でも嫌い。


「海王伝」

 海狼伝の続編。
 牛之助が、いい。
 吉松、最初で死んでしまうけど、この子も、いい。
 笛太郎の、優柔不断さ、流されるままなのが、また、いい。


「宇宙創成」

 古代の世界観から、ビッグバン宇宙論までの、科学史、という感じ。
 科学技術者と科学者の違い、科学者はすさまじい。


「カモメのジョナサン」

 面白いけど、カルトさんに、利用されて、あぁお陀仏。


「不思議の国のアリス」

 ね、の波状攻撃に、耐えられず、途中で、諦める。


本01

「人生を半分降りる」中島義道、から、てきとうに、抜粋。


 エエーイ! 「二十世紀」も「二十一世紀」も、哲学とはなんの関係もない! 「今日人類が直面している諸困難」を解決することも「権力一般を解体する思想」を見いだすことも、哲学の営みとはまったく関係ない! こうした社長の年頭所感のような駄弁ばかり連ねている哲学研究者はほんとうに困ったものです。 あなたの生活の現場を離れたいっさいの大げさな言葉は哲学的にはニセモノです。 もしあなたが日夜「よく生きること」について、つまり自分の「ぶざまな人生」について真剣に悩みとおすとすれば、「人類」だとか、「二十世紀の新思想」だとかいう空疎で高飛車で無責任な言葉は吐けないはず。 その余裕がないはずです。


 彼は繊細の極致のような人ですが、その感受性が一般人とズレている。一般人があわてふためいているときに平然としており、一般人が何ともないところで悪戦苦闘している姿が眼につきます。彼の生き方<半隠遁>と言える。演奏活動をやめたという事実より、こういうズレ方がそうなのです。彼はごく常識的な人から見れば、「半狂人」です。あまりにも、自己中心的であり、世の中の重大なことにはまったく無頓着で、どうでもよい些細な事に大奮闘している。


 こう叫ぶ人はただちに、「自分ひとりで生きているんじゃないからナ」とか「みんなのお陰を被っていることを知れ」というお説教に移ってゆく。大人になることは社会性を身につけることなのですが、それは自己完結的・自立的という概念と結びつくのではなく、逆に非完結性・非自立性という概念と結びつく。すなわち、大人になることとは、自分の非完結性・非自立性を自覚することであり、それがわからないヤツは子供なのです。

~中略~

 そして、―私自身は疑いなくシュジュギュイなのですが―本書で私がグダグダ語っているのも、この便利な言葉を使えば「みなさん、愛情乞食から脱してシュジュギュイになりましょう!」というすすめ、つまり「大人から脱して子供になりましょう!」というすすめにほかなりません。


 子供は何ごとでも自分固有の視点から・自分の気分に従って・自分の都合のよいように・自分に得なように、つまり「自分勝手に」決めるものです。だが、社会はこんなわがままはとうてい許してくれない。大人になることは、このわがままを捨てるように誓わされること。しかし、執念深い人がいて、大人になっても表面的にはこのわがままを捨てた振りだけして、心の奥底ではけっして捨てない。むしろ、それを自分のうちで密かに育てあげている。それが「シュジュギュイ=子供」なのです。


 とはいえ、とくに若いうちはあんまり「自己中心的」になりますと、生きてゆけなくなる恐れもある。まだ、人生において抵抗力がつかないうちに、一般人からのズレだけを信じて生きてゆこうとするのはつらく厳しすぎる。そこで、多くの「純粋な」青年は自殺することになるのです。

~中略~

 こういう青年にとって、「生きる」ということと「不純である」こととは同意味なのです。したがって、純粋を貫くためには死なねばならない、という単純な結論が出てくる。今どきあまりはやらない論理かもしれませんが、「自己中心的な」生き方から自殺を排除する理由はない。

~中略~

 ただ、私が気に入らないのは、「純粋ゆえに自殺する」というこの短絡的な・甘えた・思い上がった論理の振り回し、言いかえれば思考力の弱さです。「どう生きても不純である」ということはいいでしょう。ほんとうにそう思います。しかし、自殺という行為もまた同じように不純なのです。ですから、そう簡単に自殺のほうに「純粋さの戦い」の軍配を上げるわけにはいかない。何もかもわからない。何もかもわからないから「生きてみる」という生き方は、自殺をするという生き方より劣っているわけではない。不純なわけではないと思います。


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